『シャングリラの伝説』は現在更新を停止しております |
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
gravity master
「gravity」ご来客数
QRコード
ブログ内検索はこちらから
過去の記事
月別アーカイブ
アクセスありがとう!
ブロとも申請フォーム
|
サイパン島は、「サイパン国」ではない。正式国名は、英語でCOMMONWEALTH OF THENORTHERN MARIANA ISLANDSという。日本語に直訳すると「北マリアナ諸島連邦」になるが、連邦国家ではないので、「自治領」とでも翻訳しておこうか。この島は1521年、ポルトガル人の探検家フェルナンド・マゼランによって発見されたのち、19世紀末ではスペインの植民地だった。1898年、米西戦争に敗れたスペインは財政が不如意になり、ドイツに売却した。第1次大戦で、ドイツも敗北、国際連盟の委任を受けて、日本が統治した。ところが第2次大戦で日本もこれまた敗北、そして米国が施政権をもつ、国連の信託統治領となった。百年以上も列強の植民地であったこの島の“ご主人様”は5つも代替わりしたのである。チャモロ、カナカなどミクロネシアの原住民にとってみれば、なんとしても自分たちの政府がほしかった。信託統治終了後米国と交渉し、「盟約」を締結、1986年レーガン大統領の宣言により、米国自治領という政治的地位を確立した。外交と防衛の権限は米国がもつが、内政に関しては自治権を確立した。独自の憲法をもち、民選の知事と議会がある。北マリアナ諸島国は、米領であるグアムをのぞけば14の島からなり、一番大きな島(といっても面積は大島の2倍程度)が自治領政府がおかれているサイパンである。サイパンには1年で37万人もの日本人が訪れる。成田から3時間半、なにしろ近い。南海の常香の自然と情緒をお手軽に楽しめる観光の島だからだ。ここでちょっとした算数をやってみる。1998年、現地政府統計局の推計によれば、サイパンの推計人口は約6万人とのことだ。日本人観光客は、海外からやってきた観光客の70%を占めるが、仮にこの島にやってきた日本人観光客が5日間滞在するとしたら、島で日々出会う人々の12人に1人は、日本人であるとの計算が成り立つ。日系資本のホテルが9つもある。そんなサイパンだが記録によると、ガラパンには日本の統治時代、南洋庁支庁がおかれた。1丁目から4丁目の地番がつけられ、商店や医院、学校、映画館、料亭、鉄工所、それに銭湯もあり、島の砂糖キビ労働者たちでにぎわい「ガラパン銀座」と名づけられていたという。このことは、ガラパンの夜を興ずるいまの若者たちは知る由もない。44年6月、「南洋の東京」といわれたガラパンに一挙に破局が訪れた。戦艦8隻を含む米機動部隊による空襲と艦砲射撃ののち、米海兵隊2個師団2万人の上陸作戦が行われ、ガラパンは砲撃で数時間で廃墟と化したという。米軍は日本本土侵攻のための基地として、サイパンを選んだのである。この戦闘で、玉砕した日本軍の戦死者は4万千人といわれている。この島に住む日本人も含めた約3万人の民間人(うちチャモロとカナカの原住民約3千人)は、米軍の侵攻とともに北へ、北へと逃げまどった。島の北端にプンタン・サパネタという悲劇の景勝の地がある。別名、バンザイ・クリフ。日本陸海軍を率いる南雲忠一中将(ハワイ急襲の機動部隊司令)らの自決の翌日、追いつめられた婦女子と老人を含む日本人は、米兵の制止の声を背に、「バンザイ」と叫び、断崖から身を投げた。
とりあえず、知っておいて欲しいという情報である。 さぁ、思いっきり遊んでいらっしゃい!!! ![]() 今日の男めくり「失敗しなかった一日は、何もしなかった一日」 スポンサーサイト
| HOME | |
グラビティーマスター・ライブ
極真カラテ
インターネット検索はこちらから
▼GUESTS▼
▼OOOKAYAMA▼
▼TWITTER▼
Today's GRAVITUBE(A~J)
Today's GRAVITUBE(K~Z)
|
||||||||||||||||
copyright © 2008 『シャングリラの伝説』は現在更新を停止しております all rights reserved.
Designed by チラシ広告作成ナビ
|